1/7 平重衝
2007年 01月 07日
一昨日の沼津アルプス縦走の際に、平重衝が隠れた岩室と切腹場があり、調べてみました。
平治承4年(1180)、重衝(清盛の五男)は父清盛の命で南都(奈良)を攻め、大仏さんの東大寺や興福寺を焼き討ちにした。
平家が南都を攻めたのは、理由がある。その年、源頼政が挙兵し、敗れて南都に逃亡した。興福寺は藤原氏の氏寺。また藤原氏は軍事で源氏を起用していた。残党は南都や南大和の源氏党のもとに逃れた。清盛は鎮圧のために、狼藉厳禁の命令とともに軍を派遣した。ところが、南都衆徒がこれを捕らえて斬首した。そこで、重衝を総大将に反撃に出た。
重衝は元暦元年(1184)源平一の谷の敗戦で捕らえられ、鎌倉へ送られた。頼朝の前での話は有名。「弓矢を取るものが敵に命を奪われることは恥ではない、早く首をはねよ」と言った。大将軍と評された平家物語の印象的な一場面。
ところが、4年前の寺社仏閣焼き討に恨みを持つ南都衆徒が、捕らわれの重衝の引渡しを要求し南都(奈良)へ送られ、木津川で処刑された。
墓は京都伏見の日野にある北界寺にあるという。重衝の妻佐殿の生地だ。平家物語もこの地(沼津)のお話も「お話」。各地にある平家伝説のひとつなのだろう。
ということで・・・
沼津の小鷲頭山が自刃した終焉の地というのは伝説のひとつみたいですね
では「大正天皇の手植えの松の碑」も嘘か! もう!
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平治承4年(1180)、重衝(清盛の五男)は父清盛の命で南都(奈良)を攻め、大仏さんの東大寺や興福寺を焼き討ちにした。
平家が南都を攻めたのは、理由がある。その年、源頼政が挙兵し、敗れて南都に逃亡した。興福寺は藤原氏の氏寺。また藤原氏は軍事で源氏を起用していた。残党は南都や南大和の源氏党のもとに逃れた。清盛は鎮圧のために、狼藉厳禁の命令とともに軍を派遣した。ところが、南都衆徒がこれを捕らえて斬首した。そこで、重衝を総大将に反撃に出た。
重衝は元暦元年(1184)源平一の谷の敗戦で捕らえられ、鎌倉へ送られた。頼朝の前での話は有名。「弓矢を取るものが敵に命を奪われることは恥ではない、早く首をはねよ」と言った。大将軍と評された平家物語の印象的な一場面。
ところが、4年前の寺社仏閣焼き討に恨みを持つ南都衆徒が、捕らわれの重衝の引渡しを要求し南都(奈良)へ送られ、木津川で処刑された。
墓は京都伏見の日野にある北界寺にあるという。重衝の妻佐殿の生地だ。平家物語もこの地(沼津)のお話も「お話」。各地にある平家伝説のひとつなのだろう。
ということで・・・
沼津の小鷲頭山が自刃した終焉の地というのは伝説のひとつみたいですね
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by takatakabike2
| 2007-01-07 12:56
| 諸々
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